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出来ると信じている。。。

『出来ると決断しなさい。方法は後から考えれば良い。』

・・・エイブラハム・リンカーンの言葉


気が付けば、いつもそうしている気がする。

周りから見れば、無謀と思われたり、鼻で笑われたり、相手にされなかったり・・・


一人でジタバタしながらやってきた。

無根拠に「出来る」と信じている。











by gizankatoh | 2011-07-28 15:13 | 月鏡

東北に仏像奉納を願って・・・

3月11日の震災以来、いつも考えていた。

「何か出来る事はないか。。。」


先日、Twitterで

「仏師の方が集まって一体の仏像を彫り、被災された東北のお寺に奉納できないでしょうか?」

と呼びかけさせて頂いたところ京都の仏師の方が快く賛同して下さった。

仏師の三浦耀山さん。


被災地の惨状に、いつも自問自答しながら苦しんでいた。

この活動が広く多くの方の賛同をうけ、多くの方に関わって頂きたいと思っています。


千羽鶴のように、一人、一人が祈りを込めて一羽の鶴を折るように仏像が出来たら素晴らしい。

亡くなられた魂を安らげ、多くの方が祈りを捧げられますように・・・

そして、多くの方の心の拠り所となりますように。













by gizankatoh | 2011-07-27 15:15 | 東北に仏像を

コンディション。。。

自分の「形」を信じる為に、

導き出した「面」を信じる為に、

日々、淡々とコンディションを整える。


その後、振り返った時に「ああすれば良かった、こうすれば良かった・・・」と言うのは毎度の事である。

しかし、その日、その時、その瞬間に導き出した「形」を信じる事が出来なければ終わりだ。

彫刻で飯を食う資格は無い。


「技術が至らない」とか、「見る眼が無かった」と言う事は仕方が無いが、

コンディションを整え、全身全霊で作品と向き合うのは、自分の仕事への責任と、作品に対する礼儀。


「今」に対する礼儀と責任。

「百年後」に対する礼儀と責任。



『「粗雑」という病気は絵からとり払わねばならない。「稚拙」はゆるせる、「未熟」もかまわない。「粗雑」は心の病だからである。』

<日本画家 小倉遊亀の言葉>












by gizankatoh | 2011-07-26 11:08 | 月鏡

無根拠な自信。。。

自分には出来る。

自分がそう望んでいるから

自分には出来る

自分がそう信じているから


根拠の無い自信と、短いけれど歩いて来た道程を信じて。












by gizankatoh | 2011-07-20 10:14 | 月鏡

『イツカ、向コウデ』

人生は長いと、ずっと思っていた。
間違っていた。おどろくほど短かった。
きみは、そのことに気付いていたか?

なせばなると、ずっと思っていた。
間違っていた。なしとげたものなんかない。
きみは、そのことに気づいていたか?

わかってくれるはずと、思っていた。
間違っていた。誰も何もわかってくれない。
きみは、そのことに気づいていたか?

ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。
生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。
きみは、そのことに気づいていたか?

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみは、そのことに気づいていたか?

サヨウナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。



長田弘 詩集「死者の贈り物」より。












by gizankatoh | 2011-07-16 10:04 | 大切な言葉

名もない人々の尊さ・・・

無目的で生きてきた人々の尊さ。

悠久の時の中で、土を耕し、魚を捕り、飯を食らい、

土地の神様を崇め、感謝し、慎ましく生きてきた人々の尊さ。

そのような、尊い人たちの営みにより、歴史、文化は作られてきた。


土に寄り添い、季節に寄り添い、気候、風土・・・

少しづつ、少しづつ、永い、永い年月をかけて積み重ねられてきた。


歴史を積み重ねてきた、名もない人々の営みが

大きな、大きな大木のように、

しっかりと地に根を張り、

太い幹を天に向かって伸ばし、

枝を大きく空に広げている。












by gizankatoh | 2011-07-15 09:09 | 月鏡

あれから・・・

あの震災から四ヶ月という月日が流れた・・・

自分自身、悲しみと無力感と葛藤の中にあっても「立ち止まってはいられない」という思いから、

意識的にでも変わらない日常を過ごすようにしている。


・・・と言う事を「言い訳」にして、感情を殺して、現実逃避をして、心を「麻痺」させていたのかもしれない。


以前、お昼を食べながらニュースを見ていた。

被災地のニュースだ。

老人が道の上で、海に向かって花を手向け、しゃがみ込んで泣いていた。


目をそむける事が出来なかった。

涙が溢れた。

嗚咽して泣いてしまった。

涙が止まらなかった。












by gizankatoh | 2011-07-14 12:41 | 3月11日

non title...

醜さと

美しさと

弱さと

強さと

意志と

生き方と

すべて形に顕れる。












by gizankatoh | 2011-07-13 07:02 | 月鏡

未完ゆえ・・・

どこで道具を置くか・・・


目の前に作品があれば、いつまでも鑿を入れてしまう。

しかし、そういう訳にもいかない。

後になれば、「もっとこう出来た・・・」、「もっとこうすれば良かった・・・」などと言う事は常に付きまとう。


作品に向かい合っている時・・・「許す瞬間」がある。

その時に道具を置く。


それを「完成」と呼ぶのかもしれないが、

心の中では暫定的なものだ。


未完成だから、次の作品を作る。












by gizankatoh | 2011-07-10 08:18 | 月鏡

歴史を借りた『作品』。。。

自分は歴史や古典を題材に作品を制作している。。。


その時代、時代の習慣や風俗、宗教など背景も学ぶ。

やはり、その時の「空気」と言うものが、その時代の文化を創り出し、それぞれが綿密に絡み合っているのだから、

一つだけを取り出して表現しても「希薄」なものになってしまう・・・と思う。


例えば、平家物語から、一人の武者を制作しようとするとき、

その装束、武具や武士階級の事だけを研究するだけでは、作品が薄っぺらいものになってしまうと言う危惧がある。


装束など時代考証には出来る限り細心を払う。

それでも資料が残っていない事や、研究者の間でも見解が別れると言う事など、解らない事も多々ある。。。

と言う事は以前にも書かせて頂いた。


作品制作の舞台を、平安中期~初期、奈良、白鳳、飛鳥・・・古代、神代、

将来的には中国の歴史にも広げて行きたいと思っていたが

歴史資料の乏しさから、作りたいと思っていても「手が出せない」・・・と畏れていたのだ。


ちょっと前置きが長くなったが、

解らない事は解らない事として、作家自らの「解釈」と「表現力」と「物語」を一つの作品として表現しても良い♪

・・・と言う開き直りにも似た論理に帰結した。

もちろん、出来る限りの徹底した取材は前提。


それは、司馬遼太郎と山岡荘八の話を例に取って話をしてくれた、大阪高島屋の美術担当の方との話から「なるほど」と得心したのだ。

つまり、「歴史研究の資料」と、「歴史を借りた作品」との違い。


自分は資料を作っているのではなく、

自分の思いを歴史に重ね合わせ、日本の美意識や、その裏にある物語、

その人物の心を借りて自分の心を映し、表現するという私自身の「作品」を作っているのだ。


徹底した取材、歴史考証という「土台」の上に、自分の物語、美、ロマンを重ね、形にしていくと言う事です。












by gizankatoh | 2011-07-02 15:47 | 美術の話