先日、ラジオで山田五郎 (美術評論家、コラムニスト)さんがとても興味深く、とても共感する事を仰っていたので、 所々を要約、抜粋させて頂きました。 過疎化する地域にあるお寺の仏像を例に挙げ、盗難などの事件を含む文化財の管理のことなど、 今現在、仏像が置かれている危機的状況に触れ、仏像の歴史、文化財保護、美術的価値、歴史的資料、信仰。 そして、時代と共にあるべき姿とは何かなどと問いながら面白い提案をされていました。 ・・・以下抜粋。 『仏像を美術品と考えた場合、それぞれの人が自分が生きているこの時代のこの仏像はこういう状態だという”この状態”を見る。 この状態しか見られないからこそ掛け替えのないものだと思う。 だからこそ美術品は生き物だということ。 もう一方、文化財には美術品としてだけではなく歴史的資料としての役割がある。 しかし、資料としてだけだったら記録だけで十分だ。 今だったら、写真や科学的分析データ、CTスキャン、3Dプリンター・・・ あらゆる方法で現在の文化財の状態を完璧に記録出来る。 どっちを保存すべきかというと記録であって、作品自体は時代と共に変化していくことに任せた方が良いのではないかと考える。 そう考えた時にレプリカを博物館に入れて、ご本尊をお寺に置いた方が良いのではないか。 しかし、そうは言っても文化財の価値の高さやそれぞれのお寺の事情から、 どうしても博物館に預かってもらった方が良いと言うのであれば、お寺に安置しておく方はレプリカである必要はないと思う。 レプリカを作るくらいなら、現代の仏師や彫刻家に新しいご本尊を作らせてやって欲しい。 それをやらないから、新しい形の仏像が育っていない。 キリスト教も現代美術のキリスト像やマリア像がある。 仏像も時代と共に変わって来たのだから、今現在も新しい形の仏像ができて来てもおかしくない。 過去の財産を守ることも もちろん大事なんだけれども、 守ることを考え過ぎて、今生きている人がその財産を自由に楽しむことが出来なくなってしまう。 あるいは、新しい財産を新たに作り出す機会が減ってしまう事になってしまっては意味が無いのではないかと思う。 ”今”運慶 快慶が登場しても面白い。 平成の”◯◯派”が登場して仏像を一新したというようなことが起こった方が面白い。 仏像にしても美術品にしても人々の暮らしの中に生きてこそ意味が有る。 生きてるという事は時代と共に変わっていくという事であるし、時がくれば消え去るということもあるかもしれない。 その一方で新しく生まれてくる。 それが生きた芸術ということなのではないかと思う。』 ・・・全身の血が滾った。 私以外、誰がいるんだ。 私以外、誰がやるんだ。 新しい時代の仏像の形を示せるのは私しかいない。 思い込みでも良い。 無根拠な自信でも良い。 莫迦で結構。 笑わば笑え、私は本気だ。
by gizankatoh
| 2015-06-07 08:00
| 月鏡
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