野心と祈り・・・

b0177891_17102880.jpg


私の家の菩提寺が禅宗ということ、また昔から親しんで来た鎌倉という地も”禅”に育まれてきた土地柄。

”禅”を誤認しているかもしれないが、「すべてを肯定し、すべてを受け入れ、生き切る」ということが骨の髄まで染み込んでいるようである。


私の中には異なる二つの概念が相克すること無くごく自然に共存している。

それは「野心」と「祈り」。


私には正式な美術教育を受けていないというコンプレックスがある。

故に、美大卒、藝大卒という肩書きを持った人達には「負けたくない」という稚拙な自我が強い。

自身でも認めたくないことではあるが、正直を申せば誰よりも良い作品を作り、誰よりも評価されたいという稚拙で原始的な衝動がある。

負けたくないという劣等と歴史に名を残したいという恥ずべき功名心。

それは我欲と執着の甚だしい、卑しいものである。

”苦”の因である。


一方、ワタクシを滅し、木に向かい、佛をお迎えする。

人の悲しみに寄り添いたい、人の苦しみを癒したいと望むことも誰しもが持ち合わせている心。

特に強く自覚したのは”東日本大震災”。

家族や大切な人を失った方。突然奪われた命。その魂に寄り添い、慰めたい。

それが私の役割・・・”使命”であると自覚した。

生きとし生けるものの悲しみ、苦しみを取り除き、生きとし生けるものを慈しみ、祈りを捧げたい。

我欲の一つかもしれないが、それも純粋な動機と私の核心である。


見た事の無い景色を見たい。

誰も手の届かない高みへと行きたい。

遷りゆく歴史の中で後世に伝えられるような作品を残したい。

それは「野心」。


人の心に寄り添いたい。

迷い傷付いた心を癒したい。

それは「祈り」。


自らの野心を恥じ、否定して覆い隠しはしない。

キレイゴトだと言われようと、我欲を捨てて人のために佛を彫りたい。

ただひたすら、その純粋に従って野心を燃やし続けようと思う。

ただひたすら、その純粋に従って命を慈しみ祈りを捧げようと思う。

嘘はつかず、目を逸らさず、すべてを肯定し、すべてを受け入れ、

純粋に生きる事が「菩提」に繋がっているような気がする。


いつかその迷いを突き抜けた時、野心と祈りが一つになり「菩提」に変わると信じている。
by gizankatoh | 2014-11-16 17:12 | 月鏡
<< 布石・・・ 吉水快聞という彫刻家について・・・ >>